Hosoe Eikoh: Difference between revisions

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HOSOE Eikoh 細江 英公 (1933.3.18) Yonezawa, Yamagata Pref. Raised in Tokyo.

One of Japan's most internationally recognized, fine-art photographer. Professor of Photography at Tokyo Institute of Polytechnics since 1975. Director of the Kiyosato Museum of Photographic Arts, Yamanashi Pref. Vice-President of Japan Professional Photographers' Society (JPS).

Major themes People, nudes, MISHIMA Yukio, platinum prints, solarization

Education Tokyo Shashin Daigaku (Tokyo College of Photography) 1951-54.

Career Freelance since 1954. Based in Tokyo.

Best known for photographs of legendary and notorious novelist MISHIMA Yukio in Barakei (Ordeal of Roses). Mishima saw Hosoe's photographs of HIJIKATA Tatsumi, and later requested that Hosoe take his portrait for a book cover. Hosoe photographed Mishima over four sessions in 1961-62.

First photo book was Man and Woman, published by CamerArt in 1961. He concluded that film grain in photographs was essential. The photos in that book were indeed grainy, but strong. Also noted for nudes and surrealistic, solarized prints.

Proficient in English since high school, he has taught many workshops in the U.S. Highly active in photographers' organizations, such as the Japan Professional Photographers Society (JPS), for the betterment and promotion of photography in Japan.

Awards Photographer of the Year, Japan Photo Critics Association 1963; Art Award, Ministry of Education 1970; Honorary Citizen Award, Tucson, Arizona; Medaille depth of field Vermeil, Paris France 1982; Medal of the City of Arles, France 1983.

Book reviews Eikoh Hosoe: Photographs 1950-2000 Luna Rossa

Biography in Japanese

1933: 山形県米沢市に生まれる。本名は敏廣。

1945: 山形県立米沢第二工業学校土木科に入学。終戦を迎え東京の自宅に戻る。

1946: 東京都立第七中学校(現都立墨田川高等学校)に入学。

1947: 新しい時代のために新しい名前をつけるよう、従兄弟から勧められ、以後、「英公」と名乗る。

1948: 初めて自分のカメラを購入。父・米次郎が神社管理の傍ら、写真業を始める。

1949: 都立墨田川高等学校に進学。英語部と写真部に所属し、3年生で英語部の部長を務める。のちの写真評論家・吉村伸哉は同級生で写真部に所属し、3年生で部長を務める。

1950: 東京都高校英語弁論大会で1位入賞。テーマは「日本の永世中立」。

練馬区の米軍居住地・グランドハイツに英語の勉強のために毎日曜日通い始め、以後数年にわたってアメリカ人の子供たちを撮影する。

高校の近くのアマチュア・カメラクラブ「ブリリアントクラブ」に所属し、田村栄の指導を受ける。

『アサヒカメラ』などの写真雑誌への投稿、写真コンテストへの応募を始める。

1951: 「富士フォトコンテスト」(学生の部)で<ポーディちゃん>が最高賞を受賞。写真家を志すようになる。

1952: 田村栄、長浜慶三の勧めにより、東京写真短期大学(現東京工芸大学)写真技術科に入学。

『写真サロン』11月号で<子供>が特選。これを見て興味をもった評論家・福島辰夫と出会い、以後交友する。

福島の紹介で、デモクラート美術家協会を結成していた美術家・瑛九に会い強い影響を受ける。

この頃、デモクラートのメンバーをはじめ、若い芸術家たちと交流する。

1953: デモクラート美術家協会のセミナーに参加。

1954: 写真短期大学を卒業し、フリーランスの写真家になることを決意する。以後、写真雑誌、女性雑誌の仕事を始める。

1956: パネル張り写真と手書きの文章を組み合わせた初個展、「細江英公写真展 フォトストーリー『東京のアメリカ娘』(銀座・小西六フォトギャラリー)。展覧会パンフレットに渡辺勉と福島辰夫が執筆。同展はラジオドラマのシナリオ原案に採用され、「国際演劇月参加作品」として秋に中日放送で放送される。8月、久保貞次郎主宰の創造美育協会の第5回全国セミナール(戸倉上山田温泉)の記録写真を依頼され、奈良原一高とともに撮影。

秋~翌春、創造美育協会に参加していた神田の小川幼稚園を取材し、作品として撮影。

1958: 銀座の広田ビルにのちの「VIVO」メンバーの共同事務所を開設。ほぼ1年の「VIVO」の準備期間が始まる。

1959: 土方巽の「禁色」(東京・第一生命ホール、第6回全日本芸術舞踊協会新人舞踊公演)を見て、感銘を受け交友を始める。以後、土方を中心に舞踏家たちを撮影し始め、深く影響を受ける。

写真のセルフ・エージェンシー「VIVO」設立に参加。メンバーはほかに川田喜久治・佐藤明・丹野章・東松照明・奈良原一高。「VIVO」をとおして広告・雑誌表紙・フƒ@ƒbション写真等を手がける。

1960: 個展「おとこと女」により日本写真批評家協会新人賞を受賞。および富士フォトコンテスト年間作家賞を三木淳と同時受賞。

「土方巽Dance Experienceの会」(東京・第一生命ホール)のパンフレットに写真作品を掲載する。

実験映画「へそと爆弾」を製作(原作・脚本・監督)。ジャズ映画実験室(東京・有楽町ヴィディオホール)で「へそと爆弾」を上映。

「VIVO」を訪ねて上京した森山大道が助手となる。7月経済的には良好だった「VIVO」を、個々のメンバーの自主的な制作を尊重するために解散させる。

「土方巽Dance Experienceの会2」のパンフレットに写真作品を掲載する。

三島由紀夫の評論集「美の襲撃」(講談社)が刊行され、肖像写真と装幀を担当する。

1963: 雑誌『週刊現代』に見開きでグラビアページ<Life‘63>を連載。文章: 芹澤幸子。

写真集『薔薇刑』により日本写真批評家協会作家賞を受賞。

1964: アメリカとヨーロッパへ初めて旅行。バルセロナでガウディの建築を見て衝撃を受け、のち<ガウディの宇宙>はライフワークとなる。

『カメラ芸術』に<ガウディのアパート(バルセロナ)>を発表。

1965: 市川崑総監督の記録映画「東京オリンピック」のうち、「柔道」「近代五種」を監督する。

雑誌『アサヒカメラ』に<男性>の連載を始める。知人の芸術家たちのポートレートを撮影し始めるきっかけとなる。

アメリカ・ヨーロッパへ旅行。以後、毎年欧米に旅行する。

1966: 雑誌『カメラ時代』の「名作の展望と作家研究3」で細江英公特集が組まれる。

唐十郎を知り、戸山ヶ原ハイツで彼の野外ハプニングを撮影。以後、「状況劇場」の舞台を撮影する。

1967: 東京写真専門学校で教鞭をとる(69年まで)。

1968: ジョージ・イーストマン・ハウスの収蔵品による展覧会「世界の偉大な写真家たち: ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション展」(日本写真家協会主催)を組織し、東京をはじめとする全国4ヶ所で開催。

1969: サンフランシスコのフォーカス・ギャラリーと契約し、オリジナル・プリントの販売を始める。

写真評論家・吉村伸哉が雑誌「季刊写真映像」を創刊。創刊号に<抱擁>32点を刊行。

1970: 写真集『鎌鼬』で1969年度芸術選奨文部大臣賞受賞。

雑誌『季刊写真映像』に<続・抱擁>26点を発表。雑誌『中央公論』に<人間追跡>の連載を始める。

<おとこと女>がスミソニアン・インスティテューションに収蔵されることになり、作品にサインをするよう依頼を受ける。これをきっかけに、写真家の作品としてのオリジナル・プリントの重要性を感じ、渡米して、写真の保存と収集について学ぶ。

写真集『薔薇刑』の新版(英語版)を準備中に、三島由紀夫が死去。出版を延期することを決める。大阪万国博覧会の地方自治体館の写真壁画を制作。

1971: 雑誌『季刊写真映像』に<四谷シモンのプレリュード>(題は編集部による)を発表する。のちに、<シモン・ある私風景>と改題して継続される。

夏、韓国・慶州を旅行。

1972: 雑誌『アサヒカメラ』に<顔>の連載を始める(12月まで)。

ニューヨークのライト・ギャラリーと契約し、作品がアメリカとカナダで販売されるようになる。同時に、写真作品の個人的なコレクションも始める。

『エドワード・ウエストンの日記』の翻訳権を取得する。

ロチェスターのヴィジュアル・スタディーズ・ワークショップ(ネイサン・ライオンズ主宰)で講演を行う。

1973: 雑誌『季刊中央公論 経営問題』に経営者を撮影した<現代の長老>の連載を始める(82年からは雑誌『WILL』に<TOP'S TPO>と改題して継続)。

フェニックス・カレッジ(アリゾナ)で初めてのワークショップを行う。コーネル・キャパの招きによりコロンビア・カレッジ(シカゴ)でワークショップを行う。

1974: 気鋭の写真家による寺子屋形式の自由な学校「WORKSHOP写真学校」(文京区後楽)の設立に参加。ほかに東松照明・深瀬昌久・荒木経惟・横須賀功光らが参加。

季刊の‹@Šヨ誌『WORKSHOP』を9月に創刊する(第8号まで)。1976に閉校。

アンセル・アダムスに招かれ、ヨセミテ国立公園でヌードのワークショップを行う。

1975: 東京写真大学短期大学部(現東京工芸大学)教授となる。写真コレクションの形成と、ギャラリー併設を条件に招聘に応じた。

写大ギャラリー(中野区)が開設される。開設に尽力し、以後、同ギャラリーの展覧会企画と写大コレクションを担当する。

アンセル・アダムスの招きで、再びヨセミテ国立公園でヌードのワークショップを行う。

1976: アルル国際写真フェスティバルの国際会議に出席。ワークショップを行う。

アリゾナ大学で講演(演題「戦後日本の写真史」)。アリゾナ州ツーシン市の名誉市民となる。

1977: 第2回国際写真会議(バルセロナ)に出席。ガウディの建築を本格的に撮影し始める。

1978: ジョアン・ミロをマジョルカ島に訪ねる。

「日本写真文化センター設立準備懇談会」が設立され、設立委員となる。翌年に「日本写真美術館設立促進委員会」と改称し、1994年に解散。

1979: アルルの国際写真フェスティバルでワークショップを行う。

ザルツブルグ・カレッジでワークショップを行う。

1980: ガウディの建築を撮影。作品集のために依頼した、ミロの詩と絵による序を受け取る。

ロチェスター工科大学の写真保存科学のゼミに参加。パリ写真月間に招待される。

1981: 日本写真家協会副会長となる。

1982: 個展「細江英公回顧展 1960-1980」(パリ市立近代美術館)により、パリ市賞を受賞。

個展の準備のためのテスト・プリントを手で裁断したものを眺めるうち、印画紙の小片を独立した作品とみることを発案し、「Mini-Graph」と名づける。

国際写真文化交流会議代表幹事を務める。

1983: アルル国際写真フェスティバルに招待され、ワークショップを行う。

アルル国際写真フェスティバル名誉賞を受賞。

1987: ニューヨークでグウェン・エイキンとアラン・ラドウィッグからプラチナ・プリントの技術を学ぶ。

北軽井沢にプラチナ・プリント制作のための工房を設立。

1988: 広告など商業的な仕事はしないことを決意する。

1989: 雑誌『ILLUME』(東京電力)の「ILLUME INTERVIEW」の写真連載を始める。

写真誕生150年記念事業(日本写真協会主催)の実行委員長を務める。

1990: 東京国際写真シンポジウム(東京都写真美術館)に出席し、第2部のホストを務める。

コロラド州とニューヨーク州でワークショップを行う。

高齢者福祉の学問研究に対する助成団体・ユニベール財団の理事に就任。

1992: アンダーソン・ランチ・アートセンター(コロラド)などアメリカ2ヶ所でワークショップを行う。

1993: 第3回国際写真会議(サンマリノ)に出席。

『土方巽舞踏大鑑: かさぶたとキャラメル』(種村李弘ほか編、悠思社)が刊行され、掲載写真を担当する。

1994: 東京工芸大学芸術学部教授に就任。

日本写真協会年度賞(1993年度)受賞。

1995: 清里フォトアートミュージアムの初代館長となる。

1998: 東京工芸大学芸術学部及び大学‰@Œ|術学研究科(修士)課程教授となる。

紫綬褒章を受章。

大腸癌を早期に発見し、手術を受ける。

国際的な写真専門キュレーターの団体「第16回オラクル会議」(清里フォトアートミュージアムほか)を主催する。

1999: アメリカ・パテント大学(ロサンゼルス)より芸術学名誉博士号を受ける。

2000: 文部省の無試験検定により学芸員資格を取得する。

東京工芸大学芸術学部及び大学‰@Œ|術学研究科博士(後期)課程教授となる。

2001: 11月ニューヨークで開かれた、国際ペンクラブ主催の「20世紀における偉大な作家三島由紀夫を讃える夕べ」に招待され、“写真集『薔薇刑』と三島由紀夫”と題して公演。


主な出版物

1955: 光画社「35ミリ・スナップ」

1961: カメラアート社「おとこと女」

1963: 集英社「薔薇刑」

1967: Norton&Co 英語版写真集「Taka-chan and I」

1969: 現代思潮社「鎌鼬」

1970: Athenium 英語版写真集「Return to Hiroshima」

1971: 集英社 新輯版「薔薇刑」

写真評論社「抱擁」

1977: 朝日ソノラマ ソノラマ写真選書4 新版「抱擁」

1982: 日本芸術出版社「Human Body」

1984: 集英社 新版「薔薇刑」

集英社「ガウディの宇宙」

Aperture 英語版写真集「Ordeal By Roses」

1985: 講談社インターナショナル 児童向け英語版写真集「A Place Called Hiroshima」

1986: 新潮社「とんぼの本 写真の見方」(澤本徳美と共著)

1997: 小学館 日本語版「たかちゃんとぼく」

1998: 岩波書店「日本の写真家32 細江英公」

1999: Aperture 英語版写真集「Masters of Photography Eikoh Hosoe」

2000: 新潮社「細江英公の写真絵本[妖精物語]ルナ・ロッサ


主な写真展

1953: 「第2回デモクラート美術展」(東京/丸善画廊)に<ウラフ大使夫妻(インド大使)銀座にて><子供(銀座の乞食の母子)><郡童><保育所の子供達>を出品。

1954: 「第3回デモクラート美術展」(東京/丸善画廊)に出品。

「デモクラート美術家協会 第4回展」(東京/美松書房画廊)に<アメリカン・モダンダンスのリハーサル>を出品。

1956: 個展「細江英公写真展 フォトストーリー『東京のアメリカ娘』(銀座/小西六フォトギャラリー)

1957: 第1回「10人の眼」展(銀座/小西六フォトギャラリー)に<子供の世界―ある幼稚園の活動記録>を出品。

1958: 第2回「10人の眼」展(銀座/小西六フォトギャラリー)に<ヌード姉妹>を出品。

1959: 第3回「10人の眼」展(銀座/小西六フォトギャラリー)に<神様はクレイジイ>を出品。

1960: 「現代写真展―1959」(東京/国立近代美術館)に<花と少女>を出品。

個展「おとこと女」(銀座/小西六フォトギャラリー)

個展「土方巽に捧げる細江英公写真展」(東京・月光ギャラリー)

1961: 「現代写真展―1960」(東京/国立近代美術館)に<不思議なタムタム おとこと女>を出品。

1962: 写真展「NON」(銀座/松屋)に<薔薇刑>を出品。

1963: 「現代写真展―1961/1962」(東京・国立近代美術館)に<薔薇刑>を出品。

「現代の写真‘63」展(ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館)に<薔薇刑>を出品。

1966: 「現代写真の10人」展(東京/国立近代美術館)に<きもの>を出品。

1967: 「20世紀の写真」展(オタワ/カナダ国立美術館)に出品。

1968: 個展「とてつもなく悲劇的な喜劇 日本の舞踏家 天才<土方巽>主演写真劇場」(銀座/ニコンサロン)

1969: 個展「おとこと女」(ワシントンD.C/スミソニアン・インスティテューション)。

1970: 個展「薔薇刑」(サンフランシスコ/フォーカス・ギャラリー)

「三島由紀夫展」(池袋・東武百貨店)に<薔薇刑>数点を出品。

1971: 個展(銀座・画廊春秋)に<薔薇刑><きもの><鎌鼬><抱擁>を出品。

1973: 個展(ニューヨーク/ライト・ギャラリー)に<薔薇刑><鎌鼬><抱擁><シモン・私風景>を出品。

1974: 「日本の新しい写真展」(ニューヨーク近代美術館)に<おとこと女><薔薇刑>を出品「瑛九写真展」(銀座・ニコンサロンほか)。

「写真から写真へ」(新宿/マットグロッソ)に自作のほか、タルボットの<自然の鉛筆>などのコレクションを出品。

1975: 個展「シモン・ある私風景」(ニューヨーク/ライトギャラリー)

1976: 「写真売ります 12人の写真家による自選作品展」(銀座/資生堂ザ・ギンザ)にシモン<私風景>を出品。

「現代日本写真家展」(オーストリア/グラーツ美術館)に<薔薇刑>を出品。

1977: 個展「ガウディ」(銀座ニコンサロン/新宿ニコンサロン/大阪ニコンサロン)

1978: 「VIVO:日本の6人の写真家たち」展(サンタバーバラ美術館、東京/写大ギャラリー)に出品。

1979: 「日本の写真 今日とその起源」展(ボローニャ近代美術館)に出品。

個展「鎌鼬」(オハイオ州立大学/シルバーイメージ・ギャラリー、オーストリア、スイス)

個展(回顧展)(メルボルン/フォトグラフƒ@�[ズ・ギャラリー)

1980: 個展「薔薇刑・鎌鼬」(パリ/フナックフォーラム、ベルギー、スイス)

1981: 個展(リール/フナックフォーラム、トゥルーズ/フナックフォーラム)

1982: 個展「細江英公:Human Figure 1960-1980」(ロチェスター/ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館)

個展「細江英公: 写真1960-1980」(ロチェスター工科大学)

個展「細江英公: 鎌鼬と写真集」(ロチェスター/ヴィジュアル・スタディーズ・ワークショップ)

個展「現代の長老・財界の35人」(銀座/富士フォトサロン)

個展「細江英公回顧展 1960-1980」(パリ市立近代美術館)

「日本の実験映画 1960-1980」(全米60ヶ所)に「へそと原爆」を出品。

1983: 個展(ニューヨーク/ライト・ギャラリー)近作展

1984: 個展「ガウディの宇宙」(東京・プランタン銀座)

個展「細江英公: 禅と超越」(イタリア/ミラノ現代美術館)<薔薇刑><鎌鼬><抱擁><ガウディの宇宙>を出品。

個展「薔薇刑」(ニューヨーク/バーデン・ギャラリー)

「細江英公<ガウディの宇宙>オリジナルカラープリント」展(銀座/画廊春秋)

「黒い太陽: 四人の眼」展(イギリス/オックスフォード近代美術館、ロンドン、アメリカ各地)に<鎌鼬>を出品。

1986: 個展「土方巽追想 鎌鼬 細江英公による写真劇場」展(目黒/アスベスト館)

個展「細江英公の写真 ガウディへの賛歌」(東京/プランタン銀座)

「前衛芸術の日本 1910-1970」(パリ/国立近代美術館)に出品。

1987: 「土方巽舞踏写真展―危‹@‚ノ立つ肉体」(東京・渋谷パルコPart?)に出品。

1988: 個展「写真・細江英公の世界」展(伊東/池田20世紀美術館、新潟市美術館、渋谷/東急百貨店、大阪/国立国際美術館)

1989: 「土方巽とその周辺―闇と光のイコノロジー―」展(横浜市民ギャラリー)に出品。

1990: 「Eikoh Hosoe Photographs 1951-1988」展(テキサス/ヒューストン・フォト・エスト、欧州各地を1999年まで巡回)

1991: 「土方巽展 風のメタモルフォーゼ(変容)」(秋田市立千秋美術館)に<鎌鼬>を出品。

「日本写真の転換 1960年代の表現」展(東京都写真美術館)に<薔薇刑>を出品。

「写真の1955-65―自立した群像郡―」展(山口県立美術館)に<おとこと女>を出品。

1992: 「戦後写真と東北2―原・日本風景への試論」展(宮城県美術館)に<鎌鼬>を出品。

1993: 個展「細江英公・NUDE・新作展 夜明け前: 世紀末にむかって」(新宿/I.C.A.C.ウエストン・ギャラリー)

「久保貞次郎と芸術家」展(町田市立国際版画美術館)に出品。

「時代をひらいた写真家たち 1960-1970年代」展(東京都写真美術館)に<おとこと女>を出品。

1994: 「戦後日本の前衛美術」展(横浜美術館、グッゲンハイム美術館ソーホー分館、サンフランシスコ近代美術館)に「へそと爆弾」を出品。

1995: 「戦後文化の軌跡 1945-1955」展(目黒区美術館ほか3ヶ所巡回)に<おとこと女><薔薇刑>を出品。

2000: 「COUNTER-PHOTOGRAPHY」展(モスクワ/アートギャラリー 他巡回)に<鎌鼬><抱擁>を出品。

個展「ルナ・ロッサ」(四谷/モール)

「細江英公の写真 1950-200」展が山形美術館を皮切りに、2003年まで全国を巡回。

http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2002_02hosoe/profile.htmlより)